報道のあり方を、考える
5月1日の日曜日。 少し肌寒い5月の始まりだ。
ウクライナ侵攻は2か月を過ぎて、さらに悲惨を極めている。
連日、これでもかこれでもかと報道されて、その無残な状況を伝えている。
遠い日本では無力感を感じる日が続いているのも事実だ。
そんななか私は、報道の視点を変える必要があるのではと思い始めている。
リアルで深刻な報道を続けることも大事だろうが、もっと「人々に考えてもらう」報道も重要になっているのではないだろうか。
今起こっていることについて、日本に住む私たちは何を考えなければならないか。
何を話し合わなければならないか。
ロシアを非難することは当然だ。でもウクライナの人々の状況は変わらない。いやますますひどい。
そして世界の国の中では、「今、自分の国が攻められたら」ということが浮かんでいる。
日本では「反撃能力」という言葉が生まれた。軍事力を強めようということだろう。
どうなのだろう? 戦争が(その報道も含めて)次の戦争を予感させてはいないか?
何ものよりも大切な人の命、その命を最優先する社会をみんなで考えるための報道が、今必要とされていると思うのだが。
知床沖の観光船遭難事故、ここでも人の命が軽く扱われた。(整備不良の船で荒れた海に出港している)
「どうか、そっとしておいてください。」・・・行方不明者の家族が報道マイクに話していた。
山梨の行方不明の女子のことが報道されている。その報道のしかたやお母さんの様子を見ても、同じようなことを思った。
人の命の問題、子どもたちや若者たちにも、いろいろと受け止めてもらいたいと思った。
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