記憶とは言葉
4月24日の日曜日。 薄曇りの朝、ウォーキングコースは見事な新緑の桜並木だ。
「言葉」(日本語)について日ごろから関心を持っている。元国語編集者の名残りだろうか。
そして心配している。あまりにもその変化が激しいからだ。
デジタル時代の到来で、「言葉」はどんどん「記号」化しているような気がしてならない。
日常使う言葉は、どんどん短くなっている。スマホなどのやりとりは単語が多い。
「ハーイ!」とか、「ありがとう」とか、「いつ?」とか。
孫から来るラインは、クマさんやネコがペコリとおじきをしている。それだけ。
これはこれで、その機能性から役立ってはいる。それは確かだ。 でも、言葉の力や広がりを考えると心配だ。
特に外国語をしっかり勉強もしていないので、私は何も言えないのだが・・・。
日本語は表現力が豊かだと思う。心の模様を、その微妙さを表すのにふさわしい言語だ。
喜びも、怒りや悲しみも、いろいろに表現できる。自分の気持ちに正直に。
最近、「舟を編む」(三浦しをん著)を再読した。 印象的な表現があった。
「・・・記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。・・・」
「言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。」・・・などである。
この現代社会は、もしかしたらデジタル化のなかで、これまで積み重ねてきた言葉の歴史や文化を失っていくのではないか?
前回のブログで英語のことを書いた。そのことをまだ頭の中で引きずっているようだ。
参考図書「 うつりゆく日本語をよむ(今野真二著) 「日本語の大疑問(国立国語研究所編)
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