「わかる」とは何か
11月1日の日曜日。1並びの区切りのいい月日だ。
今日は大阪の都構想の住民投票、3日にはアメリカ大統領選挙など、重要な「判断」の一週間と言える。
「学ぶ」とは「なぜ」を考えること。そして「わかる」とは「なぜ」を見つけること。
このことは、前にもこの日記で書いた。
人々は、この「なぜ」が「わかる」ときに判断するのだろう。
そうしてみると、今の世の中って判断しにくいなあと思ってしまう。
日本学術会議の任命拒否問題、「総合的に、俯瞰的に判断した」「コメントを差し控える」では「なぜ」がわからない。
国の方針に反対する人を認めたくないということらしい(と、みんなうすうす「わかって」いるのかもしれない)が、しっかり考えて決めたことだから、あなたたちは「なぜ」を気にしなくてよいのだというのではまずい。
子どもたちにも説明しにくい。
年末年始の休みを広げるという案が出て、異論が出たら、要請はするけど結局どうするのかは当事者任せらしい。
文科省の判断はすばらしかった。即座にNOの返事だった。
学校を閉鎖しても、感染リスク、学力問題も、心のケア問題も改善するどころかその逆だと当事者たちが知っていての判断だった。「なぜ」がわかっていると判断がしやすい良い例だった。
このように、子どもたちの学力定着には「なぜ」や「わかる」が重要だが、実はこの世の中にこそ「なぜ」や「わかる」の軽視が広がっているのではなかろうか。
外出も控える毎日、こんなことを考えている。
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