「差し控える」が多すぎる
10月4日の日曜日の朝。曇り空だ。
早朝ウォーキングでは、あちこちでキンモクセイの香りが漂い、秋の深まりを告げていた。
コロナ禍によって、これまでの生活習慣がいろいろと制限されるようになった。
いちばん大きいのは、「直接会う」ことだと思う。
移動できない、会えない、話せない・・・というように。
もちろん、いろんな対策が打ち出され、リモートによる対話も生まれた。
その便利さも実感している。 しかし、しかし、・・・だ。
そこで気づくのだ。
直接会って、相手の顔を見ながら話し合うことの大切さを。
そしてもう一つ思うのは、コロナ禍以前から「直接会って話し合う」大切さを、私たちは少し軽視していたのではないかということ。
スマホ時代だ。誰もが意見を言える。しかし言いっぱなしだ。しかもマスク(匿名性)をして。
記者会見などで、質問に対して「・・について、説明を差し控える」という言葉が実に多い。いつからだろうか。
差し控えているのだから説明していない。記者会見などは、質問に答える場ではないのか?
直近で言うと、国会議員の「・・はウソをつく」発言や、日本学術会議の新会員任命問題。
対話が閉ざされそうな情勢のなかで、何とか対話を大切にしようと技術的な工夫が重ねられている。
でも、技術的に対処できても、「生きた対話」を大切にするという意思が無ければ意味が無い。
「差し控えます」という口調が、学校や子どもたちのなかで流行しなければいいがと思うこの頃である。
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