さて、私たちは どう生きるか
5月12日の日曜日。 昨日は暑かった! もう少しで真夏日になるところ。
最近、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)の持病を抱えている。それによる足のしびれがあるので、数日前から早朝ウォーキングを、早朝サイクリングに変更した。
若い時にスポーツをやっていた人が、老化で腰の周りの筋肉が落ちて、この症状が出ることが多いと、医師からは説明を受けた。
先日、あるシニアの集まりで講演をしたとき、ふと自分のこの症状を話したら、うなずく人が数人おられた。 なるほど。
さて、そんな話ではない。
この世の中、「自分は、これからどう生きるか」は、世代を超えた大命題だ。 まちがいない。
となると、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)ではなかろうか。
今、自宅の机の上に3冊の文庫本がある。時々開くものを目の前に立てている。その中の1冊がこれだ。
何十年も前の、赤茶けた岩波文庫。一か所だけ付箋が貼ってあり、開くと赤の傍線を引いている。(53~54ページ)
いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういうことについて、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。
そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、本当の君の思想というものだ。
コペル君に、叔父さんが語っている言葉だ。
AI、ネット社会、・・・情報の瞬間移動の時代である。
情報にとどまらず、思考や思想まで瞬間移動をしているのではなかろうか?
イヤ、思考や思想にまで熟成されないのでは?
年齢のせいだろう。 このごろ、こんな思いを周囲や若い人に伝えたい気持ちが強い。
もう一か所加えよう。
一つ一つ判断してゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情が貫かれていなくてはいけない。(56ページ)
あらためて、「今、私たちはどう生きるか」という時代ではなかろうか。
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