どこにも居場所のなかった僕が動物たちと冒険する旅を通して生きる喜びと勇気を獲得するまで
教師のチカラNo.47(2021年秋号)巻頭インタビュー
どこにも居場所のなかった僕が動物たちと冒険する旅を通して生きる喜びと勇気を獲得するまで
春間豪太郎 / 冒険家
春間豪太郎さんはサハラ砂漠や中央アジアの草原を現地の動物たちと野宿旅したり、インコやカニと一緒にヨットで日本一周したりする冒険家です。彼はものごころがついてから、親に褒められたことが一度もなく、存在を否定されていると思い続けてきました。小中学校ではいじめに遭い、「自分は周りより劣った失敗作」「自分の存在自体が罪」「このままなら死ぬしかない」との思いで暮らしてきました。
大学2年生のときフィリピンに渡航し、消息不明の友達を捜索したことをきっかけに、自分が欲しているものが何なのかに気づきました。それは「現実世界のRPG(ロールプレイングゲーム)」。自分が主人公になって、身につけたスキルで難局を乗り越え、目標を達成する冒険旅でした。
それから10年余り、誰もやったことがないような冒険に次々と挑戦することで、自信をもって生きる勇気と喜び、信頼できる友達や安心できる居場所を獲得しました。もし周りに生きづらそうな子どもがいたなら、春間さんのこんなメッセージを届けてあげてください。―「世界は広くていろいろな人が数え切れないくらいいるから、あなたが友達になれる人も数え切れないくらいいるはずだよ」
居場所がない「失敗作」の僕
記憶にない3歳の頃から、僕は親と百貨店に出かけると必ず迷子になり、母親の実家では祖父から「この子はできが悪いから、宅配便で自宅に送り返そう」と言われていたようです。僕は何か一つのことに集中すると周囲が見えなくなり、言葉を発するとその場の雰囲気を悪くしていました。家族からは褒められた記憶がなく、心のよりどころはどこにもありませんでした。
幼稚園では何をやっても周囲の子たちと同じ行動がとれず、小学生になってからは誰からも自分の考えに同意を得られませんでした。成績は平均ぐらいでしたが、授業態度が悪く、周囲には「残念な子ども」と思われていたようです。1つ年上の姉は成績がよく、部活で活躍し、親に能力を認められていましたので、劣等感を抱いていました。「自分は生まれたときからだめだったのではないか」「この状況から脱することはできない」という思いにとらわれ、だめな自分が定着していきました。
小学校の一人の女性の先生に大声で𠮟られたり、頭をたたかれたり、教室から出されて放置されることがありました。この先生は家庭訪問のとき、母と相談して「豪太郎くん改造計画」を作成、僕のすべてを否定して改造しようとしました。先生には子どもの存在を頭ごなしに否定するのではなく、少しでもよいところを認めた上で、よくないところはどう直したらよいのかを教えてもらいたかったです。
中学3年で「このままなら先の人生はない」と猛勉強
中学では授業に出るのがいやで、学校内を歩き回ったり、保健室で休んでいたりしていました。同級生からのいじめを受け、殴る蹴るの暴力を振るわれたり、「死ね」「気持ち悪い」と言われたり、教科書などを隠されたりの毎日でした。同級生の1人が僕と少し仲よくした数日後、みんなの前で「お前なんかきらいだ」と言って、僕がどれだけ傷つくかを見て楽しむという陰湿なゲームも行われていました。
国語科の担任の先生だけが僕の味方になってくれました。型破りな人情の厚い先生で、いじめがあるとすごいけんまくで駆けつけてくれました。夜遅く校外で同級生ともめたときも、僕の気持ちが落ち着くまでドライブに連れて行ってくれましたし、修学旅行でもめ事を起こしたときも、夜中まで僕の話を辛抱強く聞いてくれました。この先生が唯一の安全地帯でしたが、頼りすぎて負担を大きくしてはならないと自制していました。一方で、僕のことをバイキン扱いしてはやし立てる同級生たちに同調し、いじめに加担する社会科の若い先生もいました。ほかにも「いじめられる側に原因があるから助けない」と決めつけてくる体育科の先生もいました。
中学3年で高校進学を考える際に、この環境のまま地元の公立高校に行くのは絶対にいやでした。姉が私立高校に進学していて、経済的に公立に行くしかなかったので、入試まで残り8カ月という時点で、自宅から離れた府内でいちばん偏差値の高い高校への進学を決めました。家でも学校でも「合格するはずがない」と嘲笑されるなかで、「この高校に入学できなければ先の人生はない」という気持ちで、受験勉強を開始。入浴もせず、睡眠も1日2時間半程度で、毎日20時間以上勉強しました。もともとIQ136で、集中して学習する能力はあったようで、入学試験に合格しました。
高校1年で親から「距離をとりましょう」と言われる
命がけで勉強して入学した高校でしたが、家族からはまったく褒められず、入試で合格したくらいでは自分の存在が認められることはないということを理解しました。
親は僕にどう対応したらよいのかわからなかったようで、高校1年のとき、親に連れられて総合病院の精神科を受診しました。僕の能力は生活に支障がない程度に偏りが強く、状況を把握する能力や常識的教養が低く、記憶力は高いという診断でした。医者から偏りは矯正できず、全体の能力を高めないかぎり、苦手な項目はよくならないと言われました。親は僕をおかしいと結論づけ、その年の誕生日に「これからは距離をとりましょう」と言われました。親とは敬語で話すように義務づけられ、家族と認められなくなりました。同時に僕のゲーム機やソフトが取り上げられて返却されず、お気に入りの小説15巻が古本屋に売られました。母からは「努力したけれど好きになれなかった」と告げられ、僕の自己肯定感はさらに下がりました。家族とのコミュニケーションが破綻したまま、僕は家族と顔を合わせることを避け、自宅の離れで一人暮らしを始めました。
高校は進学校でしたので周囲との関わりが薄く、目立つ形のいじめに遭うことはありませんでした。学校をよく休み、開校以来一番欠席の多い生徒だったようです。ロングホームルームなどの受講時間の不足を校内の掃除で補いました。
現実世界のRPGを構築、攻略
大学は受験勉強せずに入学できそうで、近畿圏内にあり、寮で暮らせる大阪教育大学に進学しました。教育大を選んだのは、中学で唯一味方になってくれた国語の先生がどんな環境で学んだのか、興味があったからでした。
大学の男子寮には24時間寮生たちが自由に使える共有スペースがあり、ここで僕はゲームですごいスコアを出し、さらにゲーム内部のプログラムを改造して、寮生たちの称賛を浴びました。現実の世界でも仮想空間のように、僕の能力を認めてもらえるような生き方ができないだろうか。現実世界で自分に何が実現可能なのかわからないまま、規格外の高いスキルを身につけて自在に扱えるようになれば、僕という存在の罪は帳消しになるかもしれないと模索し始めました。
大きな転機となったのは大学2年の2010年、友達のお父さんに依頼されて、フィリピンで消息不明になった友達を捜索する旅でした。これが僕が求めていた現実世界での高難易度プレイだと気づきました。そして、さらに手ごわい未知の冒険に踏み出していきました。フィリピンから帰国後、大学を休学してニューヨークやケニアのナイロビなどをヒッチハイクで移動、野宿しながら放浪しました。それから10年余り、さまざまな冒険旅に挑戦してきました。
大学を卒業した2015年、エジプトでラクダ飼いの見習いとして働いた際には、砂漠でラクダの群れと離れて瀕死の状態に陥りました。2016年、カメルーンの熱帯雨林ではピグミー族との自給自足の生活で泥水を飲み、ウジムシのわいた小動物の肉を食べたことも。同年モロッコでロバに荷車をひかせ、犬・ネコ・鶏・鳩をキャラバンに加えて1059キロを行商しました。2017年にはキルギスの草原を馬に乗って野宿旅し、イヌワシ飼いの家で居候生活後、羊2匹・犬1匹と共に雪山に登りました。2019年、ヨットで日本一周5240キロを単独航海。2020年、チュニジアではサハラ砂漠を含む1311キロをラクダで横断しました。
なぜこうした困難な冒険を続けるのかと言えば、旅を繰り返すたびに、自分のスキルがめきめき上がっていくことを実感できるからであり、旅の不安やストレスとたたかった後に訪れるカタルシスが強烈でやみつきになったからです。さらに、多様な価値観をもつ海外の人々と出会うことで、子どもの頃から感じてきた生きづらさから解放され、僕と周囲の価値観のずれを個性として許容できるようになりました。旅で出会う人々や共に旅する動物たちとの出会いと別れは鮮烈な記憶を残します。旅はまさに人生の縮図で、濃厚な経験の積み重ねが僕に「人生は自由だ」と教えてくれました。そして、これからも冒険こそが誰も見たことのない未知の世界を見せてくれると確信しています。
これまでアプリをインストールするように、さまざまなスキルを身につけてきました。語学とプログラミングは独学で、動物語も得意です。小型船舶一級・船舶衛生管理者・気象予報士・応用情報処理技術者などの資格を取得、護身術としてキックボクシング・ライフルを習得しています。冒険の前にどんなスキルがあれば旅を無事に終えられるかをリストアップし、この能力を得るためにこれを勉強しよう、ここで働こうなどと考えをめぐらすのは楽しみです。
僕はいつも「話すとき相手の目を見ていない」「悲しそうな顔をしている」と言われてきたので、交渉力を身につけるのは急務でした。大学を2年で休学し、新宿歌舞伎町でキャッチ営業、いわゆる客引きの仕事に就きました。まず自分の視線や表情、姿勢を改良、経験と収集データに基づいてキャッチの対象を誰にするかを決め、これから何秒間話題を維持するかというような工程を組み立てて声をかけます。理論的にレベルを上げていった結果、歌舞伎町でキャッチした人数がトップになったことも。コミュニケーション力は外国の知らない土地で野宿するときには不可欠です。善良な人を見分けて声をかけ、危険ならその場を立ち去る判断ができなければ、生命を維持することはできません。
自分をサイボーグ化して一生冒険を
新たなスキルとしてロボット工学技術を身につけたいと、2021年4月筑波大学に入学、現在30歳で工学システム学類の1年生です。動物だけでなく、旅に同行するロボットを作りたいというのが動機です。それに、けがや病気で四肢の自由が利かなくなっても、死ぬまで冒険できるように自分をサイボーグ化して、これまで以上に困難な冒険に挑戦していきたいです。大学では超小型人工衛星の宇宙実証を目標とする「筑波大学結ゆいプロジェクト」にも参加、この経験をもとに自律飛行するロケットを制作、宇宙に打ち上げてみたいです。また、冒険を地球上から宇宙へ発展させ、地上15~20キロの成層圏まで気球に乗って、地球の丸さをこの目で見たいとも考えています。
春間 豪太郎(はるま ごうたろう)
1990年京都府生まれ。大阪教育大学卒業。大学2年の春、行方不明になった友人をフィリピンで捜索後、冒険家となる。主なスキルは語学(英語、フランス語、アラビア語、ロシア語 ほか)、船舶衛生管理者、気象予報士、小型船舶一級、応用情報処理技術者など。新宿区歌舞伎町でのキャッチ経験により身につけた交渉力、キックボクシングなどの護身術なども。現在、筑波大学工学システム学類1年。
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