ウイルスは、心に感染するのか
5月31日の日曜日、曇り空の朝。
明日からは、全国的に学校が再開されそうだ。
3月、4月、5月の間、数日の臨時登校はあっても、基本的に家の中で過ごしてきた子どもたちは、どんな気持ちで登校するのだろうか。
緊急事態宣言が解除されても、今度は「第2波」だ。
(ウイルス感染の恐ろしさはもう語る必要もない。これ以上聞きたくもない。)
しかしウイルス感染は、体だけだろうか。心にも感染するのではなかろうか。
ウイルス禍のなかで、「自粛警察」「SNS殺人」「虐待」などの言葉が広がった。
このウイルス禍と同時進行的に、やまゆり園事件の裁判が進行している。
植松被告は「障害者は、生産性がないから生きている価値は無い」という考えを変えなかった。(近い意味の発言をした国会議員もいた)
そしてそう語る彼は、面会者に自分のことを「役に立たない人間でした」と語っている。障害者を殺すことによって「自分の生産性」を獲得したかったのかもしれない。
ウイルス禍という人々の軟禁状態で、そのしわ寄せは「社会的弱者」に集中している。子どもたち、高齢者、障害者、病気の人、非正規労働者、フリーランサー、自営業者、国内の外国人、貧困家庭・・・。
年金、医療、介護などの国の制度が「自己責任型」に向かっているなかで、人に迷惑をかけないことが良いことという風潮は強い。
それを見ている子どもたちはじめ「弱い人」は、助けてと言いにくい。
「生産性とはお金ではない、自己実現である。」
障害福祉の父と言われる糸賀一雄氏の言葉だ。
生産性の高い社会とは、その人がその人らしく生きていける社会、その人が持っている能力を最大限に発揮できる社会である、と。
いつ終わるかわからないウイルス禍だが、ただじっと耐えるだけではなく、心の感染を防ぐことを考えてみてはどうだろうか。
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